用水が織りなす松任の街並みと産業~2020年ジオモニターツアー

海と扇状地のエリア 【松任城跡周辺/白山市旧松任地区】
2020年秋、白山手取川ジオパーク/水の旅・石の旅/モニターツアーのレポートをお届けします。 毎回、公認観光ガイドさんが案内をしてくれて、ジオパーク3つのエリアのお勧めポイントを散策します。午前10時スタート、所用時間は約2時間。白山麓の豊かな自然を満喫したり、白山信仰にまつわる歴史を辿ったり、個性派揃いのガイドさんの名調子を聴けるのも愉しみのひとつです🎵

コース紹介

「海と扇状地のエリア」にある松任地区は、手取川が作り出した扇状地の中央部に位置するまちです。街としての発展は金沢より早かったと言われ、北国街道の宿場町として栄え、製油業が盛んで金沢城の灯り用の油を作っていたなど奥深い歴史を感じるまちです。

今回は、市の中心、かつて松任城の本丸があった松任城址公園の周辺と北国街道の一部を歩くコースです♪さて、ジオの足跡はどれだけ見つかるでしょうか⁈白山市文化振興課さん発行の現在地図がわかりやすいのでこれを頼りに歩いてみます♪

ざっくりいってしまうと ①→④→⑦→⑧→⑥→⑤ こんな順番に廻ります。

① 千代女の里俳句館

今回の集合場所です。JR松任駅をでたロータリーの左側にあるのが、2006年にできた「千代女の里俳句館」です。今回は中には入りませんが、今日は度々足跡に触れることになるので、お千代さんについて簡単にご説明すると…♪
1703年、加賀国松任(現在の白山市)生まれ。表具師の娘ですが、幼いころから俳諧をたしなみ、16歳の頃には女流俳人として頭角をあらわしました。1763年、藩命により朝鮮通信使(日本国代表)として俳句を献上してからは著名な作家となりました。翌年『千代尼句集』を発刊。地方の俳壇に大きな影響を与え、ました。朝顔は、歌に多く取り上げられていることから、白山市の「市の花」に選ばれています。

…ということです。松任が生んだ稀代の俳人、加賀千代女が今まさに創作に勤しんでる風の像のまえで、ジオパーク公認ガイド高道さんの解説が始まりました。

松尾芭蕉(芸術性)、与謝蕪村(絵画性)、小林一茶(慈愛)、千代女(母性)と、それぞれに個性があるのだということがわかります。高道さん、ガイドの超ーベテランらしく、のっけから耳がダンボになってしまうほど芯のある語り口に、どんどん興味をそそられていきました♪

松任城址の城域を示す石碑を発見!「松任城址東北隅」ということは、ここは敷地の東北の角ということですね♪今の松任城址公園よりもっと広い範囲だったことが想像できます。

④ 白山市松任ふるさと館

千代女の里俳句館に隣接しています。
明治・大正・昭和期にわたって、金融・米穀・倉庫業等で活躍した吉田茂平氏の私邸で、安吉町にあったものを、大正元年に交通の要衝である現在のJR松任駅前に移築したもので、今は母屋と庭園部分が残っています。その後、昭和57年に当時の、松任市(現白山市)がこの邸宅を譲り受け開館しました。平成13年には国の登録有形文化財に登録されました。

2019年からずっと大掛かりな改修工事が行われてきて、2020年6月にリニューアルしたばかり♪ 板塀に沿って歩いていたら、ステキな門構えがお出迎え♪


「紫雲園」というのは、公募で決まった日本庭園の名前です。主屋、平唐門、等は、国の登録有形文化財となっています。


主屋の玄関柱は大理石張り!堂々たるエントランスですね、中に入ると


8寸の欅の柱、帯戸、囲炉裏の炉縁は黒柿(貼物)帯戸の引手に菊の御紋

6月に改修工事が終わったばかり、畳の匂いにおもわずムセてしまいました💦


当主はこの方「吉田茂平」氏。たくさん儲けてたくさん失ったジェットコースターのような人生だったのかな

昭和20年の頃は、松任駅前の道路が国道8号線だったと知ってびっくり


大正時代、金沢の庭師が12年もかけて造り上げたという日本庭園。見る人が見れば、兼六園より価値があるといわれるお庭なのだそうです。


御庭の名前の由来となった「紫雲石」豊臣秀吉が好んだとされる全国的にも珍しい石です。案内板にあるように、落札できなかった加賀藩のお侍が責任を取って切腹したという…美しさゆえに罪な石であります。


前田家当主「前田重教」に、日本でもっとも有名な女流俳人!と見込まれた千代女さん。外国への贈り物をモノではなく俳句にするあたり…殿さまもなかなかの文化人?違いが判る方だったのでしょうね♪


千代女が厳選したという21句、これらの句が海を渡り、国際交流に貢献したのだそうです。浪漫だな~♪千代女さん。達筆だったようですね、刻まれているのは自筆の写し


ただこの中に、有名な「朝顔やつるべ取られてもらひ水」の句はありません。一説には、千代女さん、この句があまり好きじゃなかったとか…


ふるさと館をでると法会を身につけた盲目の銅像が…晩年の「暁烏敏」さん


母と子の絆を謳った有名な「十億の母」の碑もお隣にありました。

~十億の人に十億の母あらむも わが母にまさる母ありなむや~


寄りませんでしたが、中川一政美術のまえを東に進むと分岐(交差)点に来ました。いい塩梅に風化が進んだ道標に書かれた文字は「停車場 往来 大・・」しか読めませんが、かなり古いものであることが推測されます。昔はこの近くに中村用水の舟着場があったそうです。

ここで「古地図」登場!

 

松任市立図書館所蔵


天命5年(1785年)時、見ての通り、北国街道は道路幅も広くて本線然としていますね。
今私たちが歩いて来た道のなんと細いこと!金沢方向から延びてきた街道はここで南に折れます。
正面に見えるのが金沢方向へ通じる旧北国街道。南(右)に曲がります
曲がってすぐのところにあったお社、の前を通っていきます
少し行くと、「北陸鉄道松金線(しょうきんせん)」がとおっていた道に遭遇!昭和30年まで、ここには線路が引かれていたんですね~♪金沢市の野町駅から石川県石川郡松任町の松任駅までを結んでいました。


今は無き「火除けの松」があった場所。土だけが盛り上がった跡地がわびしいですね。今も一時避難場所になっているんですね

⑤本誓寺

真宗大谷派に属し、松任四ヶ寺のひとつ。国の重要文化財である「大般若経」をはじめ、一向一揆に関する古文書や蓮如の花押のある典籍など多くの美術工芸品があり、大門は加賀藩重臣であった長家の門を移築したもので、市指定文化財となっています。

北国街道は、東三番町/東二番町/東一番町とつづいています。東一番町に入っての見どころはここ「本誓寺」。現在地図でいうと⑦番です。裏門から入ってきちゃいました。
そして表へ抜ける――。

ここで有名なのは「大門」。一部しか見えてませんが、加賀藩の重臣「長家」の屋敷門だったものを、このお寺の住職だった宗教家で書家の「松本白華」さんが譲り受けて再建したのだそうです。


本誓寺の敷地の横を流れ下る「中村用水/東川」。江戸時代、松任町人「油屋又兵衛」さんが考案した水車が、ここ東川に12基あったそうです。(因みに西川には7基)水車を使った製油法をつくってから松任の油生産は大きく向上しました。三代「利常」さんは、松任の業者を金沢に誘致して水車を作らせました。そこから「元車」「油車」「水車」の町名が誕生したということです。

かつての公道、お屋敷の門が面していました。

⑧旧加賀藩本陣青木家臨川書屋

加賀藩松任本陣址 (東町一番町/青木家) は、中村用水に接していることから「臨川書屋(りんせんしょおく)」といわれました。青木家というのは、歴代、松任町年寄役とともに、松任旅館御用役をも勤める由緒ある家柄だったのだということがわかります。

建物を撮り忘れて看板のみで…失礼します💦

街道分岐に来ました。宿場町として賑わいがでてきたため広い道が必要になり(曲がり角)、ここが北国街道となりました。現在の四日市や茶屋町にかけては、日用品や農具などを商う市が立ち、周辺地域で生産された米、麦、粟なども集まり、とても繁盛していたそうです♪

木村屋糀店の横にひっそりたたずむ「松任御傳馬所之跡」の石柱。

⑥聖興寺-千代尼塚

真宗大谷派に属し、松任四ヶ寺のひとつ。本堂をはじめ11棟の建造物が国登録有形文化財となっているほか、境内には加賀の千代女の記念館「遺芳館」があり、多くの遺墨を鑑賞できます。また、辞世の句「月も見て 我はこの世を かしく哉」を刻んだ千代尼塚(市指定史跡)があります。彼女の命日である毎年9月8日には千代尼忌および追善句会が催され、多くの俳人でにぎわいます。

中町に入ると千代女所縁の聖興寺

「千代尼塚」があります。千代尼を偲びたい方が訪れる聖地なのでしょうね♪寛政11年、千代尼の25回忌にあたって建てられたもので、石碑には辞世の句が書かれています。

~月も見て 我はこの世を かしく哉~

その隣に「千代尼堂・草風庵」千代尼150回忌を記念して建てられたもので、木造平屋建て宝形造りで、屋根には茅葺の上に銅板が葺かれています。庇の扁額「千代尼堂」は、東本願寺句仏門主の筆だそうです。

聖興寺さんでは、千代尼さんが亡くなられた9月8日(千代尼忌)に、俳句会や能楽鑑賞会を開いていて、毎年たくさんの方が訪れるそうです。愛されてますねー♪

さて、松任古地図歩きもそろそろ終盤に差し掛かってきたようです。聖興寺の裏手の小路を歩いているとどこかで見たような石碑を発見♪

「松任城址西南隅」スタート時にも見ましたが、こちらは「西南の角」やはり広い!それにしても電柱の陰とは…あとから立てたのがっ電柱じゃないかな?も少し離せなかったのか???

「松任城址公園」へ向かいます。そこでもやはり…

⑤松任城址公園

多くの武将がこの城を拠点とした男気ある城。平安時代にこの地を支配した豪族「松任氏」の砦から始まったとされる。戦国時代には、一向一揆の門徒組織「松任組」の拠点として使用されたが、柴田勝家に鎮圧され、その後「前田利長」や「丹羽長重」ら戦国大名の居城となる。家康の命により廃城。現在は本丸部分のみが残る。

松任氏(松任城主):平安時代後期~室町時代後期まで約270年に渡り居城する。

千代女の句を見つけました♪たくさんなっている瓢箪を詠んだ句ですね

~百なりやつるひと筋の心より~ 

野本永久(のもととわ)さんの句碑もありました。
~泣きいさつ男神の如く梅雨荒し~ なんか、凄まじいエネルギーを感じる句ですね

私この方を全く知らなかったのですが、近代-松任地域の俳句文化の礎を築いたかた、らしい

佐賀県生まれ、暁烏敏さんの講演を聞いて感銘を受け弟子入り。明達寺で秘書として、暁烏敏の講演や執筆活動を手助けする一方、俳人高浜虚子に師事。松任地域の農村部に俳句を広め、俳句結社「万嶺吟社」を設立するなど、俳句文化の普及に尽力した方だそうです。

やはり松任は、俳句の素地が溢れた地域なのでしょうかね~(私にはその才はありませんが…)心豊かで母性愛溢れる女性が惹きつけられる何かがあるのでしょう♪

まとめ

そうして2時間のツアーは終わりました。キーワードは「千代女」さんと「北国街道」でしたね。ガイドのTさんから頂いた資料にはこんなことも書かれていました。

1657年ごろ、姓を名乗ることができない庶民は、苗字に変わる「屋号」で生活していました。そのつけかたですが、おもに3通りあるそうです。

◆出身地屋号(約190軒):村井屋(11)・徳光屋(10)・鶴来屋(6)・小松屋(2)・尾山屋(4)など

◆職業屋号(約200軒):油屋(39)・紺屋(29)・鍛冶屋(28)・桶屋(13)・馬喰屋(11)など

◆住所位置屋号:自分が住んでいるところが町のどんなところにあるかを表した屋号:端屋(7)・角屋(5)・橋本屋(3) など

確認できただけで440軒余りもあったということです!それほどの人々が軒を並べて北国街道近くに住んでいた。この道がどれだけの求心力を持っていたかがわかりますね♪

そしてそのベースには、商いを生み出す土壌、豊かな水と耕作地があったことを思い出させてくれました。白山の水が作った扇状地の扇央部分で培ってきた歴史と文化、まだまだ学んでいきたいと思います。

次回も愉しみです♪ガイドの高道さん、ありがとうございました!

地図・アクセスなど

名前の由来である松任城は、安元2年(1176年)に現在の地に館が造られたのが始まりと言われ、その後、慶長19年(1614年)に廃城となるまで、400有余年の城史を綴っています。

名称松任城址公園
住所白山市古城町42番地
交通アクセス白山ICから国道157号線を南へ10分
金沢駅から車で30分
松任停留所下車5分

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